織田信長の人物像

織田信長の人生(戦編)

織田信長といえば、まず頭に浮かぶのは、様々な大名との戦でしょう。

 

とりあえず信長の戦い方は、

常識にとらわれないような戦いを多く展開しています。

 

例えば、武田勝頼を破った長篠の戦いでは、馬防策を用いた鉄砲三弾打ちが有名です。

他にも毛利輝元と戦った木津川口の戦いでは1回目大敗しています。

その後、鉄砲や大砲がきかない鉄甲船を作り上げ、2回目の戦いで大勝しています。

  • 今川義元を打ち取った桶狭間の戦い(信長勝利)
  • 浅井長政・朝倉義景を破った姉川の戦い(信長勝利)
  • 武田勝頼を破った長篠の戦い(信長勝利)
  • 上杉謙信に完敗した手取川の戦い(信長敗北)
  • 毛利輝元軍と2度戦った木津川口の戦い(1回目:信長敗北、2回目:信長勝利)

織田信長の人生(内政編)

信長がやった事として、「楽市楽座(らくいちらくざ)」も有名ですね。

楽市令と呼ばれたりもします。

 

この楽市楽座は、

織田信長が城下町の支配地の市場で行われた経済政策です。

これは信長が最初にしたと思ってる人が多いと思いますが、実はそうではありません。

 

1549年にに近江国の六角定頼が、

居城である観音寺城(現在の滋賀県近江八幡市安土町)の城下町である石寺で、楽市令を布いたのが初めてだと言われています。

ちなみにこの観音寺城を参考にして、後に安土城が作られています。

 

莫大な富に目をつける先見性

後の将軍となる足利義昭から京への上洛を信長はお願いされ、

義昭と共に京へ上洛し、足利義昭は室町幕府15代将軍(室町幕府最後の将軍)になっています。

その際の褒美として、副将軍の名誉ある役職を感謝の気持ちを込めて、信長へあげようとしました。

 

当時戦国大名にとっては、副将軍の役職は、

喉から手が出るほど欲しいといっても過言ではない名誉ある役職であったにも関わらず、

信長は、それを拒否し、「堺」と「近江」の町をかわりにもらってるんですね。

 

ですが、この2つを信長が貰った理由は、

大阪湾に面した堺の町と琵琶湖に面した近江の町を手に入れる事で、

莫大な資金が手元に入る事を頭で理解できていたが故の行動だったんです。

敵対する国への鉄砲ルートをつぶす目的

また堺は、世界中から様々な物資が持ち込まれている日本一活気のある港町でした。

当時、日本で人気が高かった鉄砲も多く持ち込まれていました。

※日本は戦国時代は、世界で一番鉄砲を保有している国になります(笑)

 

その港町を手に入れる事によって、

敵対する大名への鉄砲のルートを抑える目的もあったと言われています。

そして当時最強と言われていた武田信玄(武田勝頼の父)と敵対関係にあったので、

この武田信玄に鉄砲が届かないようにする意味合いが非常に強かったといえます。

 

武田信玄と聞いて騎馬隊とイメージする人は多いかと思いますが、

武田信玄はきちんと鉄砲の破壊力を認めており、当時集めていたのは事実です。

 

ですが信長が堺を抑えた事で、

鉄砲の入手ルートを抑えられてしまい、後の武田家衰退につながっていきます。

かぶき者・うつけ者

また信長は「かぶき者・うつけ者(アホ)」といわれ、

人々に馬鹿にされていました。

 

ですがそれは仮の姿であり、

計算されて演じていたというのが正しい解釈だと思います。

 

美濃国(現在の岐阜県)のマムシと恐れられた斎藤道三(さいとう どうざん)との会見の話は非常に有名です。

「うつけだと思っていた信長が、会見目前で見事な正装に着替え、道三の前に現れ、肝を冷やした」という話は有名です。

能力主義

また信長は、優秀であるものならば、身分に関わらず家臣にしています。

農民あがりの木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)なんかはその筆頭です。

 

非常に家臣に厳しかったと言われていますが、実際の信長像はそうではないです。

自分に逆らった人達も多く許しています。

 

信長の父である織田信秀が生きていた時代、

弟の織田信行が柴田勝家・林秀貞などと共に、信長を殺そうとしました。

 

ですが逆に返り討ちにあい、信行が逆に打たれてしまいます。

その際には、柴田勝家・林秀貞など自分を打とうとした人を許しています。

 

ちなみに生稲の戦いで弟の信行軍1700人を信長軍700人で破った際に、信行を一度許しています。

ですが、再度裏切ったので最終的に打ち取っています。

 

他にも能力を認められ、引き立てられた武将として、

前田利家・佐々成正・丹羽長秀・明智光秀・滝川一益などが挙げられます。

 

古い考えに捉われず、能力があるものは新参であれ迷わず引き立てる。

中国の三国志で有名な曹操と似たところがありますね。

 

他の大名を打ち取ったりなどは、他の大名でも当たり前にしていたことで、

これが非情というのはおかしな話ですね。むしろ他の大名より信長は寛大に接しています。

人間臭さが非常にあると私は思います。

 

また、松永久秀という人物がいました。彼は2度信長を裏切っています。

ですが彼が優秀であるのを知っていた信長は、2度とも彼を許そうとします。

 

ですが、彼は2度目は降参せず、大事にしていた茶釜「平蜘蛛釜」を叩き壊して、自刃(切腹)しています。

自分の城で、「平蜘蛛釜」と一緒に爆死したともいわれています。

本当に非情であったならば、自分を1度どころか2度も裏切った人を許さないのが普通です。

 

※松永久秀は信長に仕える前に、大きな悪事を3つやっています。

  • 室町将軍であった13代将軍足利義輝を殺害
  • もともと仕えていた三好家を滅ぼす
  • 現在の奈良県にある東大寺の大仏殿を燃やす

 

後に本能寺の変で明智光秀に打たれているのは、

光秀に厳しくしたからだと言われていますが、

最近では新たな資料が出てきたりして、それが理由ではなかったともいわれています。

 

簡単に言ってしまうと、明智光秀の親族が四国の長曾我部氏と婚姻関係にあり、

信長は長曾我部氏を攻めない約束をしていました。

 

ですが、後に信長は長曾我部氏を攻める決断をします。

そこで光秀は葛藤し、最終的に本能寺の変をおこしたとも言われています。

丁寧な気遣い

また木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)が浮気ばかりしていて、

美人の妻おね(ねね)が信長にその悩みを相談しています。

 

それに対しても、信長は丁寧に手紙を返しています。

ちなみにそんな家臣の夫婦喧嘩への手紙にも、

わざわざ信長の旗印である「天下布武」の刻印が押されていたことも面白いです。

 

その後、秀吉がその手紙を見た後は、

浮気は治らなかったものの、おねを妻として立てるようになったそうです。

安土城のライトアップ&見学料

安土城ができてからは、

ライトアップをして民衆を楽しませます。

日本初の「火」「松明(たいまつ)」「提灯(ちょうちん)」を使ったライトアップだと言われています。

今でいう電飾を使った冬の風物詩でもあるイルミネーションですね。

 

ルイス・フロイスの「日本史」には、

「いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせた」と記載されています。

実際は天守だけでなく、城全体&道までライトアップされていたそうです。

 

また民衆であろうと関係なしに、

入場料さえ払えば、安土城の中を見学させたりしています。

このように信長は、他大名が考えられない事を沢山やっています。

器の大きさ

またキリスト教を素直に受け入れ、日本での普及を許したり、

南蛮渡来の地球儀を見て、日本で最初に地球が丸いと一瞬で理解した人物でもあります。

 

また家臣で重要し、いつも身近に置いておいた人物の一人に弥助という人物がいます。

ちなみに、彼は黒人だったんですよね。この時代じゃありえません(笑)

 

非常に歴史が好きすぎて、本題に入る前に非常に長くなってしまいましたが、

今回は価値がないものに価値を見出させた信長の茶器・釜・茶碗などの茶道具の話を紹介したいと思います。

 

これは何もないところから価値を見出す仮想通貨(暗号通貨)に似ているところがあります。

まさしく既存の考えに捉われない信長だからこそできた事だと思います。

茶道具に価値を見出すための信長流手順

信長が茶道具に価値を生み出すまでにいたった流れは、以下の手順です。

  1. 茶道具の収集(有名な茶道具を取集する)
  2. 茶道具の披露(信長が有名な茶道具を入手した際に披露する茶会の開催)
  3. 茶道具の下賜(褒美)(功績を出した家臣に褒美として茶道具を与える)

茶道具の収集

信長は非常に茶道具を集めるのが好きな事で有名ですが、

もとを正せば、茶器などの茶道具は、ただの土から作られたものです。

本来ならば、土なんで価値が全くないものです。

 

そんな茶道具を信長が、本格的に茶道具を収集し始めたのは、

1568年に京都へ上洛した際、松永久秀や今井宗及から茶器を献上されたのがきっかけとされています。

 

この時、松永久秀からは「九十九髪(九十九茄子、付藻茄子)」、

今井宗及からは「松島の壺」「紹鴎茄子」を貰っています。

 

 

それをきっかけに、1689年に堺の港町を手に入れた際には、

信長は唐物(中国からの輸入品)である「富士茄子」の茶入れを手に入れています。

 

その後も茶器・釜・茶碗などの茶道具を信長なりの基準をきちんと定め、

質の良いものだけに絞り、集めまくっています。これを信長の「名物狩り」といいます。

※「名物狩り」とは、商人や寺院が所有していた美術工芸品として価値の高い茶道具などの名品を、強制的に近い形で買い取ることをいいます。

 

また「金、銀、米、貨幣はいくらでも使ってよいから、茶器・釜・茶碗などの天下の名品と呼べる茶道具を集めるように!」

と家臣である丹羽長秀・松井友閑にまで命令して、沢山の茶道具を手に入れています。

茶道具の披露

信長は、これまで厳選して集めていた茶器・釜・茶碗などの茶道具を、

家臣や商人など限られた参加者を集めて茶会を開いた際に、200点以上の茶道具を見せつけています。

 

こうすることによって、

自身の権勢を示し、茶の湯が武家の儀礼であることを家臣などに植え付けていっています。

茶道具の下賜(褒美)

この時代、活躍した家臣には、

領地・金銭・馬・刀剣・武具などを与えられていました。

 

ですが、信長は新たに茶道具に価値を与えたことで、

それまでの領地・金銭・馬・刀剣・武具と同等の価値、もしくはそれ以上の価値を見出したのです。

そして家臣達に、茶道具が最大の褒美であると思わせる事に信長は成功したのです。

 

それらを語るエピソードもいくつか残っています。

一番有名なのが、信長に引き立てられた滝川一益だと思います。

彼は武田勝頼を追い込み、天目山麓で討ち取るという功績を挙げています。

その報酬として、関東官領職の役職と上野一国・信濃の二郡をもらっています。

 

ですがその報酬に落胆したと言われています。

その理由は、滝川一益は武田家を滅亡させた暁には、「珠光小茄子」という茶器をもらえることを期待していました。

一国一城の主の地位&大きな領地以上に一つの茶器を求めたということなんです。

もとを正せば、ただの土、その土に一国一城の主の地位&大きな領地以上の価値が生まれた瞬間でした。

 

他には、蒲生氏郷という家臣の話も残っています。

彼が信長に「珠光小茄子」という茶器を褒美に所望したら

「今は無理だね。もっと手柄を立てたら考えるよ」と言われた話も残っています。

ちなみに珠光小茄子は、本能寺の変で一緒に焼けてしまったと言われています。

 

また信長が本能寺の変でこの世を去った後、

豊臣秀吉が頭角を現わしますが、こういう話も残っています。

 

秀吉は四国を征伐し、次に九州征伐に乗り出した際、

秋月種実(あきづき たねざね)という大名が立て籠る城を攻める前に、「火気厳禁!」という命令を出しています。

 

城攻めの際に、火矢であったり、鉄砲であったり、大砲であったりと

基本的に火は使う事が当たり前です。

 

ですが、「火気厳禁!」という命令を出したのには理由があって、

秋月種実が所持している「楢柴肩衝」という茶入をどうしても手に入れたいからでした。

 

この「楢柴肩衝」は、「初花肩衝」「新田肩衝」と合わせて「天下の三肩衝」と言われていました。

信長は、本能寺で「楢柴肩衝」を当時の所有者であった島井宗室より献上される予定でしたが、

本能寺の変が起こり、コンプリートの夢は「天下布武」と共に幻と消えました。

 

「初花肩衝」「新田肩衝」は信長の死後、秀吉が引き継いでおり、

「楢柴肩衝」の茶入を手に入れた事で、「天下の三肩衝」が秀吉のもとでコンプリートされるにいたります。

この「楢柴肩衝」の価値は、九州全てに匹敵する価値があると当時言われていました。

褒美として信長から家臣に与えられた茶道具例

  • 織田信忠→初花(茶器)、松花(茶壺)
  • 柴田勝家→柴田井戸(茶碗)
  • 丹羽長秀→白雲(茶器)
  • 羽柴秀吉→乙御前(茶釜)
  • 明智光秀→八角(茶釜)
  • 大友宗麟→新田(茶器)
  • 今井宗及→紹鴎茄子(茶入)
  • 津田宗及→珠光文琳(茶入) 

茶会を開ける許可を頂けた5人の武将

信長は、家臣達に茶会を自由に開くことを禁止していました。

茶会を開く権利を与えられる事は最高の名誉とされていましたが、信長は以下の5人にその権利を与えています。

  • 織田信忠
  • 柴田勝家
  • 丹羽長秀
  • 羽柴秀吉
  • 明智光秀

まとめ

信長の時代、家臣への褒美として領地・金銭・馬・刀剣・防具などが与えられていましたが、

新しい価値を作り出した茶道具がそれらに変わる価値を持つようになっていきました。

 

これは仮想通貨と全く同じ原理であり、

それが単純にコインであるか茶道具であるかの違いしかありません。

織田信長という枠に捉われない人だったからこそ、新しい価値を生み出せたんだと思います。

 

今回はそういう信長の魅力について、

仮想通貨の原点にもなりうる茶道具の話を掲載してみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。